「村の渡しの船頭さんは」 で始まる童謠 「船頭さん」 は、周知の通り戰前に作詞作曲されたもので、
その二番の歌詞中、
「今朝も可愛い仔馬を二匹 / 向う牧場へ載せてつた」 と今、歌はれてゐるのは、
元々 「今日も渡しでお馬が通る / あれは戰地へ行くお馬」 となつてゐた。
それが戰後、「平和的な歌詞」 に改竄された譯だが、
その傍若無人にして御都合主義的な著作權蹂躙も然る事乍ら、
改竄するにも事缺いて 「二匹」 とは何事か、せめて 「二頭」 とすべきではないかと、
戰後の 「文化政策」 に關はつた日本人らの日本語の傳統を疎かにする不見識を、
曾てソプラノの藍川由美さんが、そのコンサートの席上、慨歎された事があつた。
それに私は全く同感したのだが、最近のテレビ・アナウンサーらもまた、恐らくは局の方針もあつての事かと思ふが、さう云ふ日本語の傳統を、寧ろ積極的に無視し、破壞しようとしてゐるかのやうだ。
最近の寒波で凍つた池の上を歩く家鴨だか鴨だかの映像を紹介するナレーション中、「一羽」 と言はずして 「一匹」 と言つてゐたのもその例だし、
もつと甚だしくは、これも極く最近の事だが、ペットの犬を話題にして一旦は 「一頭」 と言ひながら、何故だか慌てゝ 「一匹」 と言ひ直す例さへ耳にした。
これなんぞ、正に積極的に傳統破壞に努めてゐる證としか思へない。
その一方では、時に日本語の亂れを論つて、今時の若者は何を數へるにも 「コ」 で濟ませる、例へば 「二歳下」 と言はずして 「二コ下」 と云ふなんぞと、取つて附けたやうな批判の科白も口にしてみせる。
全く噴飯物だが、實はかう云ふ現象、笑つてばかりはゐられない。
日本語の傳統を保守する事は、日米同盟の深化やらデフレスパイラルからの脱却やら、或いは小澤金脈とやらの解明なんぞに優るとも劣らない、寧ろ次元を異にする程に大切な問題なのだから。