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<title>尚友日記</title>
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<description>日課としている読書や日々の生活を通じて感じたことをつづります。尚友（しょうゆう）とは、孟子に見える句で、読書を通じて昔の賢人を友とすること。最近古い本はあまり読みませんが、現実に対面する可能性がほぼないという点は、同時代の知識人も過去の文人と同様。本を通じた出会いからは得るものが多くあります。メインの「書評」は本の批評というより、感銘を受けた本の内容を自分なりに咀嚼するため、備忘のために書いている観があります。少し長めの日記ですが、気が向いたらおつきあいください。</description>
<dc:creator>あつあつグラタン</dc:creator>
<dc:date>2007-08-22T23:08:50+09:00</dc:date>
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<title>四色定理</title>
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<description>　最近数学に凝っていて，いろいろ読んでいる。もちろん専門の本ではなくて，素人向けの啓蒙書ばかりだが，とても勉強になる。今読んでるのは「数学ガール」という異色の数学本。高二の「僕」がどぎまぎしつつ同級下級の美少女たちとちょっと背伸びした数学を学んでいくという，到底あり得ないハズカシイ設定の萌える数学読本だが，数学の内容は分かりやすくてなかなかよい。　数学でも特に興味深いのが，証明も反証もされていないが，正しいと予想されている未解決問題だ。現在及び過去の未解決問題の中には，素人にはその内容を理解することが難しいＮ／ＮＰ問題やリーマン予想，ポアンカレ予想などもあるが，驚くほど簡単なものもある。長い間未解決だったフェルマーの最終定理や，四色問題はその例である。　四色問題とは，「平面上のいかなる地図も四色で塗り分けられる」という予想である。これが解決され，四色定理となったのは，私が生れた年らしい。ちょっとしたことだが，なんだかこの問題に親しみを覚える。地図の塗り分けのルールは常識的なもので，平面を複数の領域（国）に曲線（国境）で分割したものを考え，国境を共有する国同士は異なる色で塗るというものである。国境線ではなく，点のみを共有する国なら同じ色で塗ってもよい。平面上の地図と言ったが，球面状の地図でもまったく同様である。適当に射影することで，球面上の地図は平面上の地図と同一視できるからだ。　勝手な地図を描いて実際にやってみると，塗り分けに三色では足りないことはすぐわかる。四色あれば塗り分けられそうだという予測もつく。もちろん塗り分けに四色いらない地図もある。正方形を敷きつめた碁盤目状の地図なら二色で足り，正六角形を敷きつめた地図なら三色で足りる。ただ，どんな地図でも四色で足りることを証明するとなると難しい。四色では足りなくて，五色ないと塗り分けられない地図があるかも知れない。　四色問題は，1852年にド・モルガンがハミルトンに宛てた書翰で提起され，1976年アッペルとハーケンにより解決された。四色問題をド・モルガン自身が思いついたのではなく，彼の学生ガスリーが兄から聞いた問題としてド・モルガンに質問したのが発端だ。ガスリーより前に，どんな地図でも四色で塗り分け可能という事実が地図製作業者の間で知られていたという説があるが，これは怪しいらしい。地図を描くのにそんなに色を節約する必要はないし，湖や海を青で塗るとか，飛び地も本国と同じ色で塗るという縛りがあるので，四色問題が出てくるわけではないということだ。　でも，地図製作業者も興味本位で色をとことん節約してみようとか考えたかもしれないよな…。まあ，地図業者間で四色問題が知られていたという事実を確認できる史料は見あたらないのだろう。今も昔も，実務に携わる人の発想や対話はなかなかきちんとした記録に残らない。史料がないからといって絶対にないとはもちろん言えないのだが，これは仕方がない。歴史はそうやって作るしかなく，四色問題発見の栄誉は，幸運にもそれを証明する記録が残った最先の人であるガスリー兄に与えられる。　四色問題の発見から解決まで，百年以上の時間が費やされたが，この間には数学界に壮大な早とちりがあった。問題発見から間もなく出た誤った証明が，なんと十年にもわたって正しいと信じられていた。1879年のケンペによる証明の不備が，1890年ヒーウッドによって指摘されるまで，四色問題は解決されたと誤解されていたのだ。今でこそ，数学の未解決問題の証明は，しばしば数年にわたる他の数学者の徹底的な検証が経たうえでなければ，証明として認められないが，百年前は結構ザルだったのか？あるいは当時はまだ四色問題の歴史も浅く，それほどの難問と思われてなくて数学者たちが不覚を取ったのかも知れない。いずれにしろ，こういった苦い経験にも学んで数学界は進歩し発展してきた。ケンペの証明の不備を指摘したヒーウッドは，同時に五色定理の証明を示すが，四色問題はなお八十余年にわたって数学者の挑戦を挫き続けた。　その間，平面・球面とは異なる曲面上の地図の塗り分け問題も考察された。浮き輪やドーナツの表面を（二次元の）トーラスと言うが，その上の地図は七色あれば塗り分けられる。二つ穴のあいた二人乗り浮き輪（種数２のトーラス）だと八色である。ｎ個穴のあいた種数ｎのトーラスに対して何色かについても一般式があり，ヒーウッドが導出した。この一般式は二次不等式を解くことで得られ，根号（√）の入った不思議な式だ。ヒーウッドが導いた数は何色で足りるかを示すだけで，本当にそれだけの色数が必要かについては未確認だったのだが，ヒーウッドの数が必要十分であることも示された。四色定理の証明に先立つこと六年，ヤングとリンゲルの仕事である。　結局，四色定理の証明は，コンピュータで厖大な計算をしてようやく達成される。トーラス上の地図の塗り分けについては，何色が必要十分か，紙とペンで計算できたのに，平面・球面上の地図ではそうはいかなかったのだ。より単純な問題がより難しいのは不思議な話で，多次元のポアンカレ予想が三次元のそれより容易に証明されたこととどこか似ている。ともあれ，アッペルとハーケンは当時のコンピュータを千時間以上も動かして四色定理の証明に漕ぎつけた。これには不快感を示す数学者も多かったらしく，数学で理想とされるエレガントな証明に対して，エレファントな証明と揶揄されたりする。その後証明法は多少スリム化されはするが，コンピュータを使わない四色定理の証明は未だに知られていない。　四色問題にアタックするのに，いろいろな方法が試みられたが，結局しらみつぶしに調べてゆくという泥臭い方法しか解決につながらなかった。平面上のあらゆる地図を，有限個の部分パターン（国々の配置）に還元して考えるのだが，有限個の配置といってもとても多く，その一つ一つの配置の検証にも実に多くの計算が必要だった。そのためコンピュータが不可欠だったのだ。具体的には，「可約配置の不可避集合」というのをつくる。　仮に四色塗り分け予想が間違っていれば，五色以上なければ塗り分けられない地図が存在する。そのような地図のうち，最小のもの，すなわち最も国の数が少ない地図を「最小反例」という。そして最小反例には絶対に含まれない国々の配置を，「可約配置」と呼ぶ。一方，「不可避集合」というのは，国々の配置を要素とする有限集合で，どんな地図でもこの集合の要素を少なくとも一つは含むような集合である。もし，可約配置だけを要素とする不可避集合が存在すれば，四色定理が証明されたことになる。最小反例に決して含まれない可約配置がどんな地図にも不可避的に含まれるとすれば，最小反例は存在できないからである。アッペルとハーケンは，二千程度の可約配置からなる不可避集合を構築したのである。コンピュータは，個々の配置が可約配置であるか否かを判定するのに欠かせなかった。</description>
<dc:creator>あつあつグラタン</dc:creator>
<dc:date>2010-03-09T22:34:00+09:00</dc:date>
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<title>三日月と木星</title>
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<description>　保育園のお迎えで，娘二人を自転車に乗せて帰るとき，西の空に三日月がきれいに見えた。三日月は，必ず宵の西の空に見え，太陽を追って沈んでゆく。いい加減な絵にあるように，三日月が空高く輝くことはありえない。そのすぐそばに明るい星。長女に「あのお星さまは何かな？」と聞くと，「いちばんぼしじゃない？」との答え。なるほど，確かにね。　宵の明星，金星だろうか？内惑星である金星も，三日月同様太陽の近くに見える。宵と明け，金星がいまどちらにいるかはわからないが，あんなに明るい星だから，金星に違いない。何せ，金星は太陽・月に次ぐ明るさを誇る。なので，「金星っていう星だよー」と教える。　ところがあとで調べると違っていた。金星ではなくて，木星だったのだ。木星があれほど明るいとは思わなかった。いまはマイナス２等星くらいで，だいたいみずがめ座の位置にある。マイナス２等星といえば，全天で最も明るい恒星であるあのシリウスよりも明るい。金星は一週間前に外合（太陽に関して地球と金星が正反対にくること）したばかりで，太陽とほとんど位置が変わらない（いて座付近）ため，いまは観測できない。今日見えた木星は，「いちばんぼし」で大正解だったわけだ。　金星は八月には東方最大離角を迎え，太陽から最も遠い角度に位置する。そして九月には最大光度を迎える。その頃には宵の明星として一番星の名をほしいままにしているはずだ。　ほかの惑星としては，最近は火星がかに座に見えるらしい。マイナス１等星だから結構明るい。かに座の星は暗くて分かりにくいけれど，隣のふたご座は冬の星座として有名だから目印になりそうだ。こんど探してみよう。冬は晴れが多いし明るい星も多い。オリオン座，冬の大三角形，大六角形。ふたごの弟ポルックスは大六角形の頂点だ。この兄弟は弟の方が少し明るい。　今まで金星以外の惑星はあまり注意して見たことがなかったが，肉眼でいろいろ見えるものなんだな。それもそのはず，人類は水金火木土の五惑星をギリシャの昔から見てきたんだよね。惑星の位置が黄道十二星座で表せるのは，地球を含めた惑星の公転面がだいたい一致しているからだ。　天球上を動く太陽・月・惑星のうち，最も速く動くのは月で，一日に10度も動く。毎日形も変わる。これから先のお迎えで，月はだんだん太りながら空を西から東へ移動して，まんまるになる。そのあとは，朝の登園で西の空に見えるようになる。有明の月。冬の星座もいいけれど，子供たちの大好きな天体はやっぱりお月さまのようだ。</description>
<dc:creator>あつあつグラタン</dc:creator>
<dc:date>2010-01-18T23:39:00+09:00</dc:date>
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<title>リーマン予想とは何か</title>
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<description>　今年はリーマン予想150周年だそうだ。この間そのNHKスペシャルをやっていて，非常に興味深く見た。少年時代に見た「地球大紀行」「人体」「アインシュタイン・ロマン」といったNスペの理系番組は，ものすごく大きな影響を僕に与えたが，そんな感動がまたよみがえったみたいだった。理系分野でも，数学についてのNスペは珍しい。一昨年のポアンカレ予想をテーマとした番組が嚆矢ではないだろうか。百年ぶりにポアンカレ予想を証明したロシア人数学者ペレルマン。彼は06年，フィールズ賞の受賞者に選ばれるが，史上初めて辞退。百万ドルの賞金も受け取らない。もともと表に出るのを好まない彼は，失踪しているそうだ。そんなゴタゴタが話題になって特集されたのだろうが，単発にならずに第二弾の数学番組が放映されたのはとっても良いことだ。　さてリーマン予想について。数学にはいまだ証明されていないが反例も見つかっておらず，正しいと考えられている重要な命題がいくつも存在し，それを「…予想」とか「…仮説」と呼ぶ。中でもリーマン予想は数学の根幹に関わる，最も重要な予想の一つとされている。それは，「ゼータ関数の非自明な零点は，実部が1/2の一直線上に存在する」というものだ。これだけだと何がなにやら？だが，予想自体の内容はさほど難しくない。「複素数sを変数とする複素関数ζ(s)が定義されているのだが，ζ(s)の値がゼロになるsが，自明なものを除けばすべてs=1/2+bi（b:実数，i:虚数単位）の形で書ける」ということだ。さて，あとはζ(s)の形と自明な零点とは何かということである。ζ(s)の形からいこう。　高校のときだったか，数学で無限級数和というのをやった（かつて無限級数は無窮級数といったらしい）。「1+1/2+1/4+1/8+…」のように，無限個の項をすべて足すというあれだ。Σという便利な記号を使うと，さっきの無限級数の和は，「Σ1/2^(n-1)」と書ける。Σとnですべての自然数nについて足し上げる約束である。あと「^」は冪乗を表す。ちなみに，この無限級数和が2であることは簡単に分る。なぜなら，Σ1/2^(n-1)=1+1/2Σ1/2^(n-1)だから。証明終り。　さて，リーマンのゼータ関数は，ある種の無限級数和を使って作った複素関数である。それもごく簡単なもので，ζ(s)=Σ1/n^s　が定義だ。つまり，すべての自然数について，そのs乗分の1（つまり-s乗）を足し合せたものをsの関数と見たものが，リーマンのゼータ関数である。ここでsが複素数であることに注意。ζ(s)の値も複素数だ。　無限級数和というのは，さっきの「Σ1/2^n」みたいに収束することもあるし，発散することもある。無限個の項を足すのだから無理もない。収束するにはまず，無限級数の項が0に収束することが必要条件である。あたりまえだ。しかしこれは十分条件ではない。面白いことに，無限級数の項は0に収束しても，その和は発散することがあるのだ。例えば「1+1/2+1/3+1/4+…」は発散することが分っている。これは高校数学でやった。第n項は1/nだから，nが大きくなると0にいくらでも近づくのだが，その和は際限なく増える。一般に，sの実部が1より大きければ，無限級数和Σ1/n^sは収束する。例えばζ(2)=Σ1/n^2は収束して，π^2/6になる。では，sの実部が1以下なら，無限級数和は発散するから，ゼータ関数は発散して無限大になるのだろうか？　いやそうではない。実は先のζ(s)=Σ1/n^sはちゃんとした定義ではない。とりあえずの暫定的な定義だった。本当は，右辺の無限級数和が発散するところでは，解析接続をつかってゼータ関数を定義するのだ。では解析接続とは何か？これは定義域が限定された複素関数の定義域を広げて，より拡張した複素関数を得る方法だ。僕の理解では，次のようなイメージになる（間違ってたら教えてください）。　例えばζ(1+i)を考える。これをさっきの暫定定義のように，無限級数和で考えると発散してしまう。でも，（実部が正の）微小な複素数をδとすると，ζ(1+i+δ)=Σ1/n(1+i+δ)　はちゃんと有限の値をもち，δ→0の極限をとると，ζ(-1+i+δ)は有限の値をもつ。つまり収束する。もっとも，s=1+i+δでδ→0といっても，δは複素数だから，sはいろいろな方向から1+iに近づける。近づく方向によって，ζ(1+i+δ)の収束する値が異なるかも知れない。しかし，Σ1/n^sの形の無限級数和は，どんな風に近づいても，収束する値は一つに決まる。この性質を正則性という。そこでζ(1+i)の値を，この収束値に決めてしまう。これが解析接続の正体だ。正則関数は解析接続によって定義域を拡張できるのだ。この繰り返しで，ゼータ関数の定義域はs=1の点を除く複素平面全体に広げられる。　「1+2+3+…=-1/12」なんて式を見たことがあるだろうか。初めてこれを見たとき僕もナンセンスだと思った。正の整数をすべて足した結果が負の値，しかも分数になるなんて？？しかし，解析接続によると確かにζ(-1)=-1/12なのである。リーマンは，実数関数としての無限級数和「Σ1/n^x」の定義域を，複素数全体に広げた関数「Σ1/n^s」を考えた。そして暫定定義「ζ(s)=Σ1/n^s」では発散してしまって関数を定義できないところでは，解析接続を使うことによって，変数の実部が1以下の領域でも有限の値をとるゼータ関数を得ることができた。めでたしめでたし。　そしてリーマンのいう「自明な零点」とは，sが負の偶数のところにある。ζ(-2)やζ(-4)は0なのである。もっともこの結果は，リーマンより百年前にオイラーが繰り込みという手法を使って出していた。負の奇数は零点ではない。ζ(-1)は-1/12だったし，ζ(-3)は1/120だそうだ。結局，リーマン予想とは，「負の偶数以外でゼータ関数の値をゼロにするのは，例外なく実部が1/2の複素数である」という予想であった。ちなみに，ゼータ関数の零点は無限個あるのだが，予想から50年ほどあとに，実部が1/2の一直線上に無限個の零点が存在するという証明が発表された。しかし，リーマンはこの証明を予想のころすでに得ていたらしい。公表はしていなかった。リーマン予想の研究には長いこと進展がなく，予想から83年後の「実部が1/2の一直線上にある零点は，すべての零点のうちの0パーセントではない（正パーセントである）」というのが一番のブレイクスルーだという。「実部が1/2の直線上に無限個の零点が存在する」にもかかわらず，「それは零点全部の0パーセントでしかない」という事態もあり得たらしい。いやはや無限とは奥が深い。　番組では，主にリーマン予想と素数の謎について解説していた。素数？この小文にはまだ出てきていなかったが，実はリーマンのゼータ関数と，素数の間には，深い関係があるのだ。キーワードはオイラー積である。それはまた次回に（ないかも）。参考文献　黒川信重・小島寛之　「リーマン予想は解決するのか？」　2009　青土社</description>
<dc:creator>あつあつグラタン</dc:creator>
<dc:date>2009-12-04T22:14:16+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://hamoblo.com/atuatugratin/index.php?type=1&amp;entryId=96">
<title>比喩の死</title>
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<description>　ことばの意味というものはいろいろな事情によって変化していく。ある言葉が，本来の意味とは異なる意味，本来の意味より狭く限定された意味で使われる事態が続けば，その言葉の意味は変容を受ける。コトバは生きている。マスコミが連呼して特定の意味合いがクローズアップされれば，その言葉の意味は狭まったり，分化したり，入れ替わったりする。「あまくだり」という言葉がある。もともとは，記紀神話にあるように，神々が天上界から地上に降りることを指すが，いまや原義の影は限りなく薄くなった。無論，現在この語は多く「天下り」と表記され，ある種の社会問題を指すのである。「あまくだり」という語では，古い意味が事実上この新しい意味に取って代わられてしまった。もちろん，古い意味で使われないこともないから，語義が二つに分かれたともいえる。　現在支配的な意味の「あまくだり」は，当初は当然隠喩として使われた。官僚が自分の省庁の関連団体に再就職することを，天孫降臨になぞらえたのである。その比喩（譬喩）が，次第にこなれてもはや比喩ではなくなった。多用されることで，比喩が正式な語義へと昇格したのである。「あまくだり」には，ほかの比喩的用法もあり，「証明抜きに，定理があまくだりで出てくる本」などと言うこともあるが，もちろんこれを第三の語義と考えることもできる。　このように，使いすぎると比喩は死ぬ。比喩は修辞法の一種であり，新鮮味を失って陳腐になればその役割を終えるのだ。そして，それは単語の新しい意味に生まれ変わる。もちろん「…のような」と明示する直喩では，この現象は起きないが，隠喩や換喩が死んで，単語の派生義になった例は古今東西数多い。　何気なく使っているが，音楽を「味わう」，危機感を「いだく」，などもそうである。「味わう」は食物についていうのが原義だし，「いだく（うだく）」の古い用例は，物理的に抱えることを意味するだけだった。英語の「plate」が皿だけでなく料理のことを意味するようになったのは，換喩が死んだ例である。　当初は比喩として使われていても，「比喩として使っているんだぞ」という意識が薄れてくると，語の意味そのものが増えたり，比喩を含む形に拡張されたりする。これは，言語記号の恣意性に起因する，極めて自然な現象だ。語形と意味の結びつきは恣意的なものにすぎない。だからこそ，言葉の意味は変遷してゆく。比喩の死は，言葉の意味を変容させる一つの原因として作用する。　文系理系という二分法が広く行われているが，比喩は文理の堺も超える。本来科学技術の用語であった語が，普通の文章に定着してしまうことがある。「地方経済の地盤沈下が激しい」とか「出版界に地殻変動をもたらす」とか「わが社のＤＮＡ」とか，一般の文脈で，技術用語がよく比喩的に使われる。その語の属する技術の専門家からしたら，本来の意味を不当に捻じ曲げるうさんくさい言い方に聞こえるかもしれない。しかし文系人間は比喩という修辞法を使わないではいられないのだ。レトリックは人々に効果的に訴えかけるためにとても役立つ方便だから，これは仕方のないことだ。「地盤沈下」「地殻変動」「ＤＮＡ」が技術用語だということは文章の書き手も読み手も重々承知だ。だから，こういった比喩が多用され，さらには死んでしまったとしても，本来の用語の意味に関してそれほど誤解は招かないだろう。たぶん。</description>
<dc:creator>あつあつグラタン</dc:creator>
<dc:date>2009-11-11T22:41:55+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://hamoblo.com/atuatugratin/index.php?type=1&amp;entryId=95">
<title>ワイルド・スワン</title>
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<description>城戸久枝　「あの戦争から遠く離れて」　2007　情報センター出版局張戎　「ワイルド・スワン」　1998　講談社文庫矢吹晋　「激辛書評で知る中国の政治・経済の虚実」　2007　日経BP社　明々後日，中華人民共和国は建国60周年を迎える。先頃，遅ればせながら，「ワイルド・スワン」を読んだ。邦訳は93年に出ているから，私が高校生のころだ。当時話題になったという記憶はあるが，そのときは読んでいなかった。　我が家ではテレビドラマはほとんど見ないのだが，妻はドラマ化された作品をよく本で読む。今年春ＮＨＫのドラマで「遙かなる絆」というのがあった。日本人として育った主人公が，中国残留孤児であった父の半生をたどるという筋書だ。その原作「あの戦争から遠く離れて」を妻が読み，私も読んでみた。著者の父は，四歳で満洲に取り残されたが，中国人夫婦に育てられて成人する。その後実父母が見つかって，幸運にも国交正常化前に帰国を果たす。28歳独身。帰国後，働きながら夜学に通う。苦労の末，完全に忘れていた日本語をとりもどし，結婚。著者は，残留孤児二世だが，日本語で教育をうけ，中国について何も知らずに育ってきた。私と同世代の著者が，父の第二の祖国に興味をもつのは，「ワイルド・スワン」を読んでからだったという。「ワイルド・スワン」の著者，張戎は，1952年生れ。文革をくぐり抜け，英語を学んでロンドンに留学。自らの体験と母の回想をもとに，祖母，母，自分の三代の女が生きた，激動の20世紀中国を描いている。　古い中国での人々の生活は本当に苛酷であった。特に女性は虐げられている。祖先崇拝が根強く，女性は名前も与えられないほど軽視されるのが普通だった。纏足という風習があり，女の子は幼児のころから足を布できつく縛って小さいままにする。足は小さければ小さいほどよく，10センチほどであれば申し分ない。歩くのに支障がないはずはないが，纏足の女性が不器用によちよち歩く姿が男性に好まれた。著者の祖母の時代はまだこの風習が残っており，祖母も激痛に耐えて小さい足を獲得した。幼い我が子が痛がる様子に纏足をあきらめる親もいたが，大きい足では嫁入りに差し支える。結婚に際して恥をかき，なぜ心を鬼にして纏足してくれなかったの，と親を恨む娘もいた。　著者の祖母は軍閥時代にある将軍に見初められ，十代でその妾になる。警察で働く祖母の父が，二人の出会いをうまく演出したのだ。祖母には一軒の家が与えられるが，正妻の他に大勢の妾を所有する将軍は，結婚式以来六年も帰ってこない。その間祖母は軟禁状態におかれ，独り寝の不幸をかこつ。六年後，突然戻った将軍との間に娘が生れる。著者の母であった。　将軍の死後，正妻に娘を取り上げられそうになるが，幸運にも取り戻し，祖母は錦州で老医者の後妻として暮らす。錦州が位置する中国東北部は，軍閥割拠のあと，満洲国の支配をうけた。日本の敗戦でロシア軍がなだれ込む。錦州でも掠奪があり，抵抗する市民は殺戮された。その後も支配者は次々と交替。特に，国民党軍と共産党軍は激しい市街戦を演じた。人命が限りなく軽い，そんな殺伐とした中で母は育つ。粗暴な国民党の兵隊にくらべ，共産党兵士は礼儀正しく規律があった。学生時代の母は共産党シンパになり，積極的にその活動に協力する。そんな中で知り合った共産党ゲリラ隊長の父と結婚，間もなく，父の故郷四川省へ向かう。　その15年ほど前，1934年から一年かけて，毛沢東率いる革命軍は，国民党の攻撃を避け抗日を行なうため，江西省瑞金から陝西省延安まで北上した。世に言う長征である。父は，そのころからの共産党員で，いまや幹部であった。ただ潔癖な彼は，自分にも家族にも厳しかった。母との帰郷途上，母は体調を崩すが，父は自分の乗る自動車に乗せてやることもなかった。党幹部でなければ乗れない規則なのだ。身内びいきは中国の旧弊の筆頭である。過去の政権の腐敗・崩潰もすべてこれら古い中国の悪徳に淵源する。すべての人民は平等に扱わなくてはならない。共産主義こそ人類の理想である。父の党への忠誠心は相当なものだった。長時間の苛酷な移動の中，母は初めての子を流産した。　四川省で母も党の仕事を得て，使命に励む。合間に子供が四人でき，二番目が著者であった。党員たるもの起きている時間はことごとく党務に捧げることを要求され，子供達は託児所で育つ。のちに満洲から移ってきた祖母も面倒をみてくれた。　著者が幼い頃の共産党は様々な模索を続けた。かつて国民党や日帝を支持した者や，農村の地主などの敵対階級は，真っ先に弾圧されていたが，それが落ち着くと反右派闘争が始まる。「百花斉放・百家争鳴」というかりそめの言論の自由化が行なわれ，炙り出された批判的文化人が右派分子として弾圧されていった。職場内でも告発が強制され（糾弾すべき人数のノルマがあった），数々の冤罪を生んだが，それと引き替えに毛沢東体制は強化された。そして50年代末の大躍進。小規模で無意味な土法炉での鉄鋼生産に，農村・都市のマンパワーがことごとく割かれ，ソ連の支援引揚や天災も重なって，食糧が不足，数千万が餓死した。　そして著者が中学生のとき，ついに文革が始まり，著者も紅衛兵となる。毛沢東を崇拝する学生や労働者が，教師や党幹部，知識人を吊し上げ，伝統文化を破壊した。エネルギーに溢れ，分別のない若者が，理想社会を目指すというスローガンに煽られて暴走した。中央幹部では，劉少奇や鄧小平などの実権派が，資本主義の道を歩む修正主義の「走資派」と名指しされて失脚。毛沢東は，大躍進の失敗などで失われつつあった権力を再び確保するために文革を仕掛けたのだった。彼は自分が神格化されていたことを最大限利用した。党組織を破壊することもいとわなかった。忠実な党幹部だった著者の両親も迫害される。この混乱に乗じて私怨を晴らす者も大勢いた。暴力と狂気が支配する状況に著者は嫌悪感を抱くが，そんな感情を抱く自分の方が間違っているのだと信じ込む。この破壊は理想のためなのだ。当時の筆者には，毛沢東を疑うことなど考えられなかった。　やがて著者は農村に下放される。人々の現実を見て，文革の間違いがおぼろげながら見えてきた。当局は，若者を見下していた。断片的な事実から政治の現状を認識し，批判的にとらえることなどできないと考えて，「革命精神を農村から学べ」と若者を下放したのだった。しかし，著者の周りにも疑問を感じる若者は少なくなかった。そして76年，ようやく文革の嵐は過ぎ去る。毛沢東が死んだのだ。　著者はロンドンへの留学が決まり，祖国を後にする。彼女にはそのときまで，毛沢東を全否定することはできなかった。文革の責任は江青をはじめとする中央文革委員会の四人組にある。中国の公式見解もそうである。建国の父毛沢東の肖像は今も天安門広場を見渡している。「ワイルド・スワン」で脚光を浴びた張戎は，05年に夫と共著で，毛沢東の伝記「マオ」を出した。しかしこれはいわゆるトンデモ本らしい。矢吹晋によれば，事実を曲げてまで毛沢東を極端に悪魔化した悪書である。何百人もの関係者への聞き取り，厖大な史料の引用は，宣伝のための虚仮威しにすぎない。出版当時，「中国近現代史を書き換える衝撃の一冊」などと新聞書評で「中国の専門家」は囃したが，「マオ」が描く新事実は到底実証研究に耐えない。何しろ張作霖爆殺の犯人をソ連にしているくらいだ。張戎も夫も歴史叙述の訓練を受けておらず，史料批判は杜撰きわまりない。　文革であんなひどい目に遭ったのだから，張戎が毛沢東を憎むのも仕方ない，と私の妻は同情的だ。確かにそうかもしれない。歴史というものは，距離をおいて眺めなければ，本当には記述できない。歴史の被害者が歴史を書くのは非常に難しい。「ワイルド・スワン」は個人的な体験をもとにした家族史であり，優れた作品だ。しかし，これで張戎が有名になったばかりに「マオ」が読まれ，毛沢東に関する誤解が広く流布してしまったことは，残念なことである。</description>
<dc:creator>あつあつグラタン</dc:creator>
<dc:date>2009-09-28T22:09:25+09:00</dc:date>
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<title>村上春樹を読む</title>
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<description>　この頃，村上春樹を読むようになった。といっても「１Ｑ８４」ではなく，もっとずっと昔に書かれたものを文庫で読む。どれも20年以上前の作品だ。学生時代に彼のノンフィクション「アンダーグラウンド」を読んだが，たいした印象は残っていなかった。もちろん，地下鉄サリン事件自体は衝撃だった。何しろあれは大学入学直前，初めて通うことになる東京で起きた惨事だった。　村上作品にははじめ悪い印象をいだいた。今年になって「ノルウェイの森」を読んだときだ。来年映画化とかで，妻が読み始めたのをパラパラ眺めてみた。頓智問答のような会話，翻訳のような文体。描かれる若者は，どこか陰があり，酒を飲み，煙草を吸い，女の子と寝てばかり。やたらに人が自殺する。どれも気に入らない。ありえない。　言語学に興味があって，二年ほど前からよく金川欣二のページを見ていた。きっかけは彼の著書「おいしい日本語」を読んだことだ。言語学者の彼は，ネット上で長きにわたって文章を公開している。一つの文章がものすごく長く，かなり読みにくいがはまるとおもしろい。子育ての文章まであってなかなかいいことを言っている。　その彼が村上の文章を頻繁に引用する。村上好きらしい。言語学者をうならせる文章の書き手，ということで，機会があれば読んでみるか，と思っていたのだが，「ノルウェイの森」の世界には全く入り込めない。代表作がこれじゃあほかの作品もダメだな，と思う。　そのころから内田樹を読むようになる。フランス現代思想に造詣が深い評論家？だそうで，全共闘世代。多くの著書をものし，社会問題に対して，世間の常識とは違った角度から発言をしている。どんなテーマでも取り上げるので，貧弱な基礎知識で無責任な放言を繰り返しているだけ，という批判も多い。だが物事は様々な視点で眺めなくてはならない。その材料を提供してくれるこういう人の存在は有意義だ。　その内田も村上を絶賛している。ほとんど信者である。ほかの作品もダメかと思ったけど，それならそのうちまた読んでみるか。というところに，丁度妻が「ダンス・ダンス・ダンス」を借りてきた。読んでみる。うん，「ノルウェイの森」よりかなりましだ。妻は「雪かき仕事」という言葉が気に入った。悪くない表現だ。でも「高度資本主義社会」というのは妙な日本語だ。それに，羊男とはいったい何者だ？羊的思念？？ともあれ「ノルウェイの森」よりはずっと良かった。「ダンス・ダンス・ダンス」はそれ以前の三部作の続編だという。主人公の「僕」が四作品を通じて共通し，70年代を含む十数年間が順に舞台となる。ということで，デビュー作「風の歌を聞け」を読み，それから一つ飛ばして「羊をめぐる冒険」を読んだ。「ノルウェイの森」を読んだとき，全然おもしろくないよね，ありえないよまったく，と妻に感想をもらしたら，これはファンタジーなんだから，とたしなめられた。彼女の方がだいぶ大人だ。これはムラカミワールドなんだから。「羊をめぐる冒険」でよくわかった。　はじめは鼻についた比喩表現も，何冊か読むうちにすっと入ってくるようになった。人名が不自然なほど出てこない文章にも違和感が薄れた。本を読むことはあらすじをつかむことだと思っていたが，まるで間違っていた。表現を楽しみ，描写を楽しむのだ。夜，ガールフレンドが部屋に来る。会話があって，二人でソーセージを食べる。僕は三本，彼女は二本。二つのグラスに缶ビールを分ける。描かれるそういう些細な状況に，人は共感する。こういう情景って20年やそこらでは変わらない。　作品には，村上という作家の思想が溢れている。内田によれば，村上作品のテーマは，世の中にはなんだかよく分からないが邪悪で巨大なものがいて，人々はそれに翻弄されながらも生きていく，ということらしい。それでも社会がどうにかやっていけるのは，誰もやりたがらないが誰かがやらなきゃ皆が困る「雪かき」のような仕事を，黙々とやってくれる無数の人々がいることだ。なるほど，そんなものかな。小説の中ですべての出来事がすっきりつながるわけではないのも，世界にきちんとした意味などないことを表している。人間は何事にも意味づけをしないと気がすまない動物だ。自分に降りかかった出来事が無意味であることに耐えられず，オカルトに走る人は多い。本当は，世の中に答えなんてないし，人生にゴールはないのだ。生きるのに目的なんかない。皆ただただ生きて，その過程でささやかな幸せを見つけていく。　作品にちりばめられた寓意を発見するのも楽しい。文章の懐が深いから，いろいろな読み方ができる。作者がまったく意図しなかった意味でも，読者は作品から読み取ることができる。山崎豊子や吉村昭のように，厖大な資料を読み込み，書斎を出て多くの取材をして，その結果を作品の中で十二分に生かす小説家こそ，尊敬に値すると思っていた。頭の中の妄想でさらさら書ける小説なんか何だ。これは随分と一面的な見方だった。　一昨日，「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」を読み終えた。さて，次は何を読もう。</description>
<dc:creator>あつあつグラタン</dc:creator>
<dc:date>2009-09-17T22:52:47+09:00</dc:date>
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<title>銃に恋して</title>
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<description>半沢隆実　「銃に恋して」　2009　集英社新書　日本でも，アメリカでの銃乱射事件が時折報道される。米国内でもそのたびに銃規制の声が上がるが，しばらくすると他の論点にかき消され，なかなか変わらない。07年にもバージニア工科大で拳銃を乱射する事件があった。一人の学生が32人を殺し，自殺するという衝撃的なものだった。銃規制派はこんな悲劇をいつまで繰り返すのかと叫んだが，規制反対派は，こうならないよう一般の学生，教員も武装せよと言う。もうまるっきりかみ合っていない。結局，論点は精神障碍者の問題にすりかえられ，騒ぎは沈静化してしまった。　アメリカには三億人の人口に二億挺を超える銃があり，毎年五百万挺近く増加している。毎年三万人以上が銃で死亡する。警官の発砲で人が怪我しただけでニュースになる日本では考えられない事態だ。銃をもつ権利は，憲法に根拠がある。「AwellregulatedMilitia,beingnecessarytothesecurityofafreeState,therightofthepeopletokeepandbearArms,shallnotbeinfringed.」とする，修正第二条である。かつてこの条文は，州が連邦政府に従属しないよう，州兵の存在を規定したという解釈が優勢だった。しかし，現在州兵は米連邦軍の指揮下にあるため，この解釈は無理になった。そのため，修正第二条は国民が武装する権利を保証したものと考えられている。　日本にも憲法第九条を守ろうとする護憲勢力があるが，米国でも銃規制反対派は修正第二条を死守する構えである。全米ライフル協会（ＮＲＡ）の会長を務めた元俳優のチャールトン・ヘストンは「Frommycolddeadhand」という名言を残した。銃を取り上げるなら，俺を殺して取り上げろというのだ。もちろん権利だからといって無制限に認められるものではない。この条文を改正しなくても，銃の規制を強くすることはできるのだろうが，根本的解決は難しい。銃ロビーが政治に与える影響は強く，変革を掲げるオバマ大統領もこればかりは手出しができない。　こういった現状の背景には，アメリカが通ってきた特異な歴史がある。17世紀イギリスの名誉革命以来，圧政からの解放に武器は不可欠と考えられてきた。実際に使わなくても，武装しているだけで抑止力になる。アメリカ建国の父たちは，イギリス本土で宗教的迫害をうけ，新大陸に移り住んだ。北米の地に根付いた彼らは，18世紀の終わり頃，本国の搾取に耐えかねて武器を取って立ち上がった。独立戦争の主役は，正規軍ではなく，招集がかかればものの一分で武器を取って集まる民兵であった。彼らはミニッツマンと呼ばれ，愛国の象徴となる。そして始まった西部開拓。それは，インディアンの襲撃に怯えながら，自分と家族を銃で守ってなされた事業だった。　アメリカは伝統的に権力に対する不信感が強く，小さな政府志向型の国である。犯罪の検挙率は低く，警察は頼りない。軍隊は大規模だが，世界中に展開しているため，国内は手薄だ。台風カトリーナの際，政府の力の弱さが露呈した。被災地では略奪，暴行が相次ぎ，無法地帯と化した。自分の身は自分で守らなければならない。911のときも，カトリーナのときも，不安を覚え銃砲店に駆け込む人々が急増した。カトリーナ後，銃ロビーのはたらきかけで，このような非常事態に市民の銃を政府が取り上げることが，いかなる理由であっても禁止されることとなった。　中には，一家に一挺を義務化した自治体さえある。そこには，善良な市民が銃をもつことこそ，犯罪抑止につながるという信念がある。銃は市民だけでなく，女性にとっても大きな福音だという。腕力に劣る女性も，武装することで凶悪犯と対等にわたりあえる（もちろん日頃の訓練が要るだろうが）。歴史的に虐げられてきた女性を解放する神からの贈り物。それが銃である。これぞ真の男女平等ではないか！…などと，銃崇拝はフェミニズムにまで通じる。　銃が珍しくないアメリカでは，正当防衛の範囲がものすごく広い。ハロウィンで訪問先を間違えた留学生・服部君の射殺事件は，日本人には忘れられない。この事件でも文句なしに正当防衛が成り立っている。日本ならすぐ過剰防衛になってしまうところだが，民事責任すら問われなかった。正当防衛は警官の行為にも当然認められる。ということは，少しでも変な素振りをすると，警官は撃ってくるということだ。アメリカでは，警察に車を停められたらハンドルから絶対に手を離してはならない。銃を探していると思われて撃たれてしまうから。怪しい奴は撃ってから職質，というのが警官の鉄則らしい。それができない警官は，元警官だけ。すなわち殉職してもうこの世にいない。　アメリカはご存じの通り訴訟社会である。メーカーが訴えられることも多い。たばこ会社に対して，喫煙者が巨額の賠償を求め，それが認められてしまう。それなのに，銃器製造業者はそのような責任を負わない。ＮＲＡ等のロビーによってそういう法律ができたからだ。「人を憎んで銃を憎まず」が法的にも徹底されている。悪いのは銃ではない，犯罪者だ。もちろん銃メーカーにもＰＬ法の適用はあるが。　銃に肯定的な意見は特に南部に多い。犯罪者から身を守るという理由からだけではない。南部では伝統的なスポーツとしてハンティングの地位が高い。大自然を相手に生きてきた開拓時代の名残なのだろう。彼らは，銃は文化としてアメリカに根付いていると考える。アメリカ人のアイデンティティの一つの柱というわけだ。子供向けのハンティング教室もあり，小さい頃から射撃訓練を受けてライフルに親しむ。運動でも勉強でもぱっとしない息子に，射撃の才能があるのを知り，誇りに思う父親もいるようだ。そういえば，のび太はあやとりのほかに射撃が得意だった。アメリカに生まれていたら，のび太は劣等生ではなかったかもしれない。　アメリカに銃規制がないわけではない。60年代，ケネディ大統領，キング牧師，ケネディ司法長官，と政治家の暗殺が相次ぎ，初めての銃規制法ができるがこれは形だけのものだった。現行の銃規制法としてもっとも知られているのはブレイディ法である。この法律は，レーガン大統領暗殺未遂事件がきっかけとなってできた初めての実質的な銃規制法である。銃の販売にあたって，購入者の犯罪歴等を確認するのに五日の猶予を義務づけている。これによって，犯罪者が銃を入手するのを防ぐことができるとされるが，実はかなりのザル法である。ブレイディ法は，個人間の銃の取引には適用がない。全米各地で，銃所持者が自分のコレクションを持ち寄る大規模なバザールが開かれている。ここでは購入者の身元チェックもなく，犯罪者が銃を入手するのを防ぐことはできない。　銃規制が非常に厳しく，治安の良い日本。こういう国が現実に存在することは銃規制反対派にはおもしろくない。そこで彼らは論駁する。言い分はこうだ。日本人には自由がない。交番などという権力装置があって，警察が地域に密着し，国民は常に監視され，抑圧されている。世帯主は年二回警察の訪問を受け，家族構成から年収，車の種類，仕事の内容までバッチリ把握されている。そのおかけで，確かに治安は良いのかも知れない。しかし，そんな社会に住みたいか。銃は自由にとって不可欠だ。銃がないアメリカなんて生きる価値がない。かつてナチスも銃を規制し，市民から抵抗の手段を取り上げた。銃規制はまさにナチスの所業なのだ。　はあ，そうですか…。日本に生まれてよかった。</description>
<dc:creator>あつあつグラタン</dc:creator>
<dc:date>2009-08-15T22:09:50+09:00</dc:date>
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<title>新左翼</title>
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<description>　「責任という虚構」で見たように，近代の掲げる自立した個人や自由な意思は，フィクションであり，社会をなりたたせるための方便にすぎない。人間は完全ではない。　不完全なのは個々の人間だけではない。人類の理性一般に信頼を寄せる「合理主義」という考え方にも限界がある。全ての人間に理性がそなわっている。その理性に訴えれば人々は合意に至り，社会が抱える数々の問題が解決されていく。この考えは，啓蒙思想の時代に，中世の軛を打ち破るうえで大きな役割を果たした。しかし，この合理主義は歴史上何度も裏目に出てきた。出だしのフランス革命からして，恐怖政治が現出し，革命家同士の間で多くの血が流れた。そして20世紀には，マルクス主義の暴走によりおびただしい人命が失われる。　普遍的な理性の存在を前提すると，伝統や習慣は不合理な悪習として斥けられ，頭の中で考えた理想の追求が重視されやすい。すなわち合理主義は左翼思想と結びつきやすい。合理主義者は，自らが信じる正義（＝理性に従い努力によって到達した解答）に反する意見を持ち，正義に反する行動をとる者を，間違っていると考える。そうして彼らを批判し，改心を迫る。それが不可能と知ると，彼らを物理的に攻撃する。人類に普遍的な理性の存在を自明と考え，自分の掲げる正義がそれに合致していると思いこんでしまえば，それを理解できない，理解しようともしない輩は，ともに人類の未来を担うに値しない。それどころか，人類の将来にとって有害ですらある。こうして排除・抹殺が正当化される。20世紀にマルクス主義が暴走したのもまさにそれであった。　その大規模な例は，スターリンによる粛清や，中国の文化大革命，カンボジアのポルポト派による大虐殺などである。これらの悲劇は外国で起こったが，日本においても，戦後，マルクス主義は大きな影響力をもっていた。それが噴出したのが新左翼運動である。デモ等による合法的な反戦運動，労働運動はもちろん，構内バリケード封鎖など，ある程度の不法行為を伴う運動さえ，一時は大衆の支持を一定程度集めていた。運動衰退期に入ると，一部の学生や元学生が尖鋭化し，革命を夢見て破壊的なテロ活動にのめりこんでいく。　昨年還暦の父，今年還暦の母は，二人とも大学紛争の主役である全共闘世代にあたる。世界的にスチューデントパワーの爆発した68年に大学に入り，あさま山荘事件のあった72年に卒業している。母は完全なノンポリ一般学生だったようだが，父は同居人がオルグされて帰ってこなくなったり，身近な友人が運動に深く取り込まれていくのを見ていたらしい。父の大学は，工場の多い地域にあり，また東大を落ちて挫折して入ってきた学生が多かったこともあって，学内の雰囲気はかなり反体制的だったようだ。　新左翼は，1950年代後半に生まれ，共産党や社会党，総評などの従来の左翼との対比でそう呼ばれる。左翼がそうであるように，無数の異なる組織，セクトがあり，それらを総称して新左翼と呼ぶ。新左翼誕生のきっかけは，日本共産党の方針変更，スターリン批判であった。まず，その系譜を簡単に確認しておきたい。　戦前の日本にも，共産主義を含む社会主義は入ってきており，左翼知識人は存在した。しかし，旧憲法の下，1920-30年代に社会主義的言論は苛酷な弾圧を受け，影響力をもつまでには至らなかった。その左翼思想が，敗戦によって解放される。占領軍による民主化の方針のもと，共産党も合法化された。当時の日本共産党はもちろんマルクス主義を掲げ，ソ連に続く共産主義国家を目指す。しかし，それも束の間，冷戦勃発により，占領方針は急遽逆コースへ変更される。レッドパージの中，内紛も手伝って共産党の一部は武装闘争などの非合法活動を敢行する。実現した中国共産革命に倣い，農村を根拠地にゲリラ戦をたたかうとして，非公然武装組織（山村工作隊）を作り，火焔瓶で警察へのテロを行なった。暴力革命を目指すが，国民の支持は離れて第25回総選挙で議席を失い，破防法成立など取り締まりが厳しくなる中，武装闘争は破綻。55年の日本共産党第六回全国協議会において，武闘路線は「極左冒険主義」であったとされ，一転して抛棄される。　この共産党の180度の方針変更は，党員やシンパに大きな衝撃を与え，党の権威は失墜。さらに翌年，共産主義の本拠ソ連ではフルシチョフによるスターリン批判がなされ，スターリン主義の誤りが暴露される。また同じ56年には，ソ連はハンガリー動乱に対する血の弾圧で国際的に非難を浴びる。これらの出来事をきっかけとして，既成の左翼を批判して生まれた組織，運動が，新左翼であった。50年代後半から80年にかけて，大いに世間を騒がした。60年安保闘争，67年羽田闘争，ベトナム反戦運動，成田空港反対闘争，68-69年大学紛争，70年よど号ハイジャック事件，72年連合赤軍事件，百人以上の死者を出した内ゲバ戦争，大企業を狙った爆弾テロ…。　新左翼は決して当初から過激だったのではない。ブント全学連に主導された60年安保では，デモ参加者は素手で無帽。ジグザグデモをしたり，シュプレヒコールで気勢をあげるくらいだった。ただ，規模はものすごかった。新左翼運動は世界各地であったが，動員数の点で日本は群を抜いていた。狭い国土に人口がひしめき，安価な鉄道が発達していたため，数十万人という大人数の集結が可能だった。60年6月，日米安保条約改定の自然承認を前に，連日連夜デモ隊は国会を取り囲む。15日，全学連が国会へ突入し，警官隊と衝突。その混乱の中，東大生・樺美智子が圧死する。日本の新左翼運動における最初の殉教者になった。二人目の犠牲者は，これから７年後，三派全学連による羽田闘争においてであった。以来，警察との衝突で死者が出るたびに虐殺抗議集会がもたれ，団結の強化，志気の向上が叫ばれる。しかし日本の警察はものすごく抑制がきいていた。80年代末の天安門事件では，丸腰の市民に人民解放軍が発砲，300人以上が殺されたとされる。日本では権力側は拳銃さえ使わなかった。　60年安保の後，警察権力に対抗するためデモ隊は武装を始め，角材（ゲバ棒）にヘルメット，面が割れないようサングラスにマスクという典型的ないでたちを確立してゆく。武器は一部で火焔瓶や鉄パイプにエスカレートするが，まだ60年代の新左翼運動は，街頭で多額のカンパが集まるなど，ある程度国民の共感を得ていた。この大衆的基盤も，69年をピークに失われてゆき，同時に少数精鋭による過激な闘争が目立つようになる。中核派と革マル派の殺し合いや，連合赤軍での血の粛清など，セクト間，セクト内の内ゲバは，学生運動が急速に衰退する70年代に激化。内ゲバでは武器としてアイスピック，バール，ピッケルまで登場し，凄惨な暴力の応酬が続く。権力へ向けては，爆弾や銃の使用まで正当化されていく。警察官僚夫人爆殺など，権力周辺へのテロも，強大な権力と対決するためには止むを得ないという論理が唱えられ，過激派は狂信者集団へと純化していった。山岳ベースにおいて，連合赤軍は，共産主義化が足りない，という理由で同志に総括を求め，殴打・緊縛し，酷寒の屋外に放置するなどして12名を死に至らしめた。　あさま山荘に立てこもった連合赤軍幹部，坂口弘の手記を読んだ。主体的に考え，振る舞っているようでいて，実は周囲に流されるまま，破滅に至ってしまった一人の若者の純粋さ，未熟さが悲しい。彼は今，死刑囚として監獄にいる。犯罪事実から死刑はほぼ確実だったが，公判中の75年，死刑を逃れる絶好の機会があった。赤軍派がクアラルンプルの米大使館を襲い，人質解放と交換に同志の奪還を求めたのである。政府は超法規的措置として坂東國男らを解放したが，坂口は奪還を拒んで死刑判決を受けた。当時のテロリストは優遇されていた。人命は地球より重かった。テロとの戦いの今世紀からはとても考えられない。ちなみに，坂東の父親は，あさま山荘陥落時，息子の逮捕を知り自殺している。　坂口が奪還を拒否したのは，自分たちの武装闘争が間違っていたと自認したからだという。暴力革命を否定し，法廷闘争を選択した坂口の死刑確定から16年が経った。共同被告人だった坂東の公判が中絶したため，彼の処刑はないといわれる（刑訴475条2項但書）が，これは誤解で，死刑執行命令書が整えば執行は合法的に可能である。しかし，上のような事情を考慮すると，彼の死刑執行命令書にサインできる法務大臣は，現れないような気もする。坂東が逃亡している以上，坂口の死刑は，執行しないことも合法なのである。　合理的思考によって獲得された，マルクス主義のイデオロギーは，人類に様々な悲劇をもたらした。近代合理主義の背景には，絶対者としての神の存在を前提にした，キリスト教における告解の習慣―真実に照らした個々人による内省―があったという。フランス革命政府が，旧来の宗教行事に代わって「理性の祭典」や「至高存在の祭典」などを行なったことに象徴されるように，近代化とは，神への信仰が理性への信仰に変わったことにすぎなかったのだ。それは科学技術などの面で一定の成功をおさめたが，内実は何も変わっていない。正義の名のもとに，人間同士が殺し合いをするという愚行は，21世紀の今も続いている。道徳，正義，倫理という価値観は決して普遍的，絶対的なものではない。</description>
<dc:creator>あつあつグラタン</dc:creator>
<dc:date>2009-07-22T22:12:17+09:00</dc:date>
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<title>生誕百年，六十年</title>
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<description>　今年生誕百年の太宰治が話題である。先月19日の誕生日（玉川上水に死体があがった日でもある）を中心に，各種メディアでも盛り上がった。特に若い人に人気で，よく読まれているらしい。本当かどうか知らないが，本が売れているのは事実のようだ。騒ぐから売れるのか，売れたから騒ぐのか？まあ純粋にどちらか一方，ということはなくって，騒ぐのと売れるのがしばらくの間相互作用をしてきて，それが今ピークを迎えている，という感じなのだろう。ブームというのはそういうものだ。　今年生誕百年の作家といえば，松本清張もそうだ。彼の誕生日は12月21日なので，今度の冬には清張ブームが起こっているのだろう。太宰と清張が同い年，というのは少し意外だ。清張の方がずっと身近で，より最近の作家，という感じがする。個人的に純文学はあまり読まない，というのもある。が，清張の活躍は太宰が死んだあとに始まったので，大方の印象も同じだろう。清張はとても遅咲きだ。　清張のデビューは戦後，40歳を過ぎてからだ。彼は戦争中，朝日新聞に勤めていた。以前は嘱託社員だったが，収入が減るにもかかわらず，正社員にしてもらった。案の定，陸軍から赤紙がきて応召し，朝鮮半島で終戦を迎える。その間，留守中の家族には，朝日新聞から給料が支払われた。今も正社員と派遣社員の格差が問題になるが，戦前も同じである。大企業のサラリーマンは安心して戦争に行けた。中小企業の職工，自営業者や農民はそうはいかなかった。　清張といえば，「点と線」「ゼロの焦点」「砂の器」「黒革の手帖」など推理小説であるが，彼以前の推理小説（探偵小説）とは一風違う。江戸川亂歩を代表とする昔の探偵小説には，超人的な名探偵が出てきて，だれも解けなかった謎をことごとく解決し，皆をあっといわせる。しかしそんなのはどうも不自然だ。現実はそんなものじゃない。いくら小説でも，それはいかがなものか，というので，彼はより現実的な物語を描いている。清張の推理小説は，犯罪の動機を特に重視し，背景となった社会的事情にもしっかり触れることで，説得力を増している。ただ，彼が疑問視した名探偵は，21世紀の今も漫画やドラマの世界では主流のようだ。いつの時代もヒーローは必要とされる。　子供は皆，ヒーローものが好きだ。うちの子も最近プリキュアにはまっている。善と悪がはっきりしていて，正義のヒーロー（ヒロイン）が活躍して悪をくじく。大変わかりやすい構図で，感情にも訴えかけるし，後味もよい。私自身もサンバルカン・ダイナマン・ギャバン等の戦隊ものをよく観ていた。しかし，そんな子供も成長するにつれ，世の中そんなに単純なものじゃないことを知ってゆく。それでも虚構の世界では，わかりやすい二分法で描かれた物語が支持を集める。それがあくまでエンターテインメントの範囲にとどまっていればよいが，このような思考法は少なからず現実を把握する際にも使われる。二分法やステレオタイプは思考を節約する。実際問題として，ステレオタイプ全くなしでものを考えることなどできないが，極端な二分法を現実に適用するのは危ない。　純文学というのは，娯楽小説にありがちな，極端な二分法を排する傾向があるらしい。現実はもっと混沌としていて人間も社会も矛盾だらけである。人間の汚い所をさらけ出し，どうしようもない感情の奔流，そういうものをあからさまに描く。概して純文学は，後味があまりよくないのもそのためだろう。　戦争に敗けた日本では，価値観が激変する。戦争に協力した知識人は競ってそれに追従を唱えた。これに対し，太宰は世の中の欺瞞を絶望的に感じとり，「斜陽」や「人間失格」を執筆したという。そして最後には情死を遂げて自身も破滅する。その後に登場した清張は，そういう戦争直後の激動から立ち直った人々に，より現実味のある虚構を，エンターテインメントとして提供した。純文学のように現実や人間本性を見つめすぎずに，かといって陳腐な空想に陥らない程度に，うまくバランスをとって成功した作家，といえるのではないだろうか。　清張の活躍した時代は，新聞小説全盛期だった。皆が新聞を読み，そこから国民的作家が続々輩出していく時代だった。今では状況が一変している。今年還暦を迎え，最近しきりに新刊が取り沙汰されている村上春樹が，最後の国民的作家になるのかもしれない。私は嫌いだが。</description>
<dc:creator>あつあつグラタン</dc:creator>
<dc:date>2009-07-03T22:20:21+09:00</dc:date>
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<title>中国の歴史</title>
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<description>　ギリシャ神話，創世記，記紀…。多くの民族が豊かな神話をもつが，中国には神話が少ない。長い間神話だと思われていた殷王朝の実在は実証されたし，さらにその前の夏王朝も，実在した可能性が高いそうだ。三皇五帝のように純粋な神話もあるにはあるが，あまり面白くもない。面白いのはなんと言っても歴史であり，歴史がそのまま民族の物語になっている。　近代以前，歴史家は虚構を取り入れることを格別厭わなかった。特に中国においてはそれが顕著である。他者が知ることのできない，当事者二人きりの場でなされたやりとりを，いかにも見てきたように描く。その描き方がみごとであり，歴史上の人物・事件をよく表現していれば，それは文句なしに歴史になってしまう。実際に起こったことが歴史なのではなく，記述されたことこそ歴史なのである。史実かどうかは問題でない。中国人にとって，歴史とは教訓を得るためのものであり，よい教訓が得られるかどうかが重要なのである。だから中国の歴史はおもしろい。　中国には歴代王朝公認の歴史である正史が24あり，まとめて「二十四史（ニジュウシシ）」と呼ばれる。もちろんこれら正史にも，史実であり得ないエピソードが満載である。この二十四史の一部である17の正史に，宋代の史料を補ってコンパクトにまとめたのが「十八史略」という書物である。歴史の流れがざっとつかめるし，故事，金言がちりばめられていてとても重宝された。日本でも，侍の子はこの「十八史略」で歴史に入門した。少年時代に私が初めて読んだ活字の歴史物は，陳舜臣「小説十八史略」。これは小説なのでとても面白いが，小説にする前から小説の要素は非常に大きいのである。三国志にしてもそうだ。人口に膾炙しているのは小説である三国志演義の内容だが，正史に記述された事実だけでも充分ドラマチックでスリリングだ。何しろ，司馬遷「史記」の評価が高いのは，歴史・人物を初めて「活き活きと」書いてみせたことが大きい。　もちろん，ちゃんとした史実の部分だけでも，中国史はおもしろい。特におもしろいのが，王朝の命運が尽き，新興勢力にとって替わられる王朝交替である。天命が革まるのでこれを「革命」という。皇帝の姓（中国の皇帝には姓がある）が易わるので，「易姓革命」ともいう。この革命に欠かせない役割を演じるのが盗賊である。この辺の事情を書いた，中国文学者・高島俊男の「中国の大盗賊・完全版」講談社現代文庫　はめっぽう面白いのでおすすめだ。　一つの王朝が末期を迎えると，決まって無頼の輩が盗賊となって各地を荒らし回り，政権の瓦解を早めることになる。秦末の陳勝呉広の乱に始まって，漢末の黄巾の乱，唐末の黄巣の乱，元末の赤巾の乱など，枚挙にいとまがない。このようなあぶれ者，食い詰め者の盗賊団は，王朝衰退期に限らずいつでもいるのだが，特に皇帝の天命が尽きる頃に猖獗をきわめる。時には，盗賊の親分が天下をのっとって，皇帝になることさえある。こういう事態は驚くほど多く，ほとんどの場合「皇帝を僭称した」と後の歴史家に切り捨てられるが，何百年も続く王朝を始めた盗賊の親玉もいる。その代表選手が，漢をうちたてた劉邦と，明を興した朱元璋である。漢も明も，歴代王朝屈指の長期政権だ。知らない人はいまい。　「盗」「賊」「匪」などと呼ばれる彼らは，ただの乱暴者ではない。さすがは文の国，中国では盗賊もある程度大きくなってくると，知識人を迎えて箔をつけるのがならわしだ。知識人の中には，科挙に失敗して不平を鳴らしていたり，世の中の不正義を憂えていたりするのがいるわけで，こういうのが賊軍に投じて，参謀として戦いをうまく進めるのはもちろん，大義名分を起案して檄を飛ばしたり，お頭が皇帝を名乗るときには国号を考えたり，元号を定めたり，暦をつくったりして，支配者としてのきちっとした形を整えていく。官軍と賊軍の違いは，そのときの王朝側であるかそうでないかの差でしかない。官軍であっても，兵の質はつねに極めて悪く，人民に対して賊軍よりもひどい仕打ちをする。そんな官軍を賊軍が破って，親分が皇帝になると，賊軍は官軍となる。新王朝が足場を固めると，やがて正史の編纂にとりかかる。　正史というものは，王朝の交替後，前王朝の遺した公的記録をもとに編まれる。自分の倒した王朝について書かせるのである。すると，今の皇帝に都合の良いように事実が相当ねじ曲げられてしまいそうだが，普通は意外と良心的な仕上がりになっている。正史は，王朝交替からかなりの時間をおいて編まれるのが一つの理由だろう。もちろん，前王朝末期については，執筆時点の王朝のアイデンティティに関わる非常にデリケートなところであり，記述を割引して考える必要はあるようだ。　良心的な仕上がりのもう一つの理由は，歴史家の心意気だ。中国の歴史家について，必ず触れられる逸話がある。命に替えても事実に反する記載を拒む姿勢を示すエピソードだ。春秋時代，斉の宰相・崔杼が主君を殺し，新しい主君を立てた。歴史を記録する官吏が「崔杼，その君を弑す」と書いたのに怒って，崔杼はその史官を殺してしまう。その弟が史官となるが，弟も「崔杼，その君を弑す」と書く。それを殺しても，さらに下の弟に同じことを書かれ，とうとう諦めたという話である。中国の文人ならば，二千年前から全員が例外なく知っているエピソードであり，歴史を綴る者は，この精神が常に頭の中にあった。そのため，中国の歴史に誇張はあっても，重要な歴史的事実が捏造されることは少ない。正史の編纂が初代皇帝のもとではなく，何代も経てから行なわれるのは，長い間尊重されてきたこの歴史家倫理を通すための防衛策なのかもしれない。創作されるのはささやかな事実で，そうであれば，中国の伝統的歴史観からみて何らの問題もない。日本史でも，信玄謙信一騎打ちのように，その種の創作は絶えない。　清朝崩潰から間もなく百年になるが，最後の王朝清を描いた正史「清史」はまだできていない。もちろん現代の中国には，正史でなくても国家公認の歴史はある。西洋から近代歴史学が取り入れられ，歴史の見直しも進んだ。しかし20世紀を通じて，中国史の研究は日本の方がはるかに進んでいた。世紀の前半は革命，内戦，抗日戦争と混乱続きだった。後半も，イデオロギーに反する歴史解釈は許されず，御用学者が跋扈した。歴史上の農民叛乱はことごとく「起義」と呼ばれ，庶民が支配者に立ち向かう正義の闘いとして例外なく賞賛された。日本でも教科書で農民一揆の記述が過度に強調されたりしたが，あちらの教科書はもっとずっと熱がこもっている。抗日の歴史についても，冷静な記述は望めない。それでも最近では文化面の交流も進み，改善の動きはあるようだ。しかし，改革開放を経た今でも，共産党批判の言説は依然として封じられている。今年20周年を迎えた天安門事件についても，当局は内に向けては情報を伏せ，外に向けては正当化している。　そんな中国でも，いつかは自由に歴史を語ることができるようになるだろう。時の流れは傷をいやすし，何より情報の流通をそういつまでも統制し続けることなどできない。マルクスの唯物史観は大いなる誤謬だったが，言論の自由化という方向は歴史の必然という気がする。</description>
<dc:creator>あつあつグラタン</dc:creator>
<dc:date>2009-06-24T23:41:41+09:00</dc:date>
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