生誕百年,六十年 [2009年07月 3日(Fri)]
今年生誕百年の太宰治が話題である。先月19日の誕生日(玉川上水に死体があがった日でもある)を中心に,各種メディアでも盛り上がった。特に若い人に人気で,よく読まれているらしい。本当かどうか知らないが,本が売れているのは事実のようだ。騒ぐから売れるのか,売れたから騒ぐのか?まあ純粋にどちらか一方,ということはなくって,騒ぐのと売れるのがしばらくの間相互作用をしてきて,それが今ピークを迎えている,という感じなのだろう。ブームというのはそういうものだ。
今年生誕百年の作家といえば,松本清張もそうだ。彼の誕生日は12月21日なので,今度の冬には清張ブームが起こっているのだろう。太宰と清張が同い年,というのは少し意外だ。清張の方がずっと身近で,より最近の作家,という感じがする。個人的に純文学はあまり読まない,というのもある。が,清張の活躍は太宰が死んだあとに始まったので,大方の印象も同じだろう。清張はとても遅咲きだ。
清張のデビューは戦後,40歳を過ぎてからだ。彼は戦争中,朝日新聞に勤めていた。以前は嘱託社員だったが,収入が減るにもかかわらず,正社員にしてもらった。案の定,陸軍から赤紙がきて応召し,朝鮮半島で終戦を迎える。その間,留守中の家族には,朝日新聞から給料が支払われた。今も正社員と派遣社員の格差が問題になるが,戦前も同じである。大企業のサラリーマンは安心して戦争に行けた。中小企業の職工,自営業者や農民はそうはいかなかった。
清張といえば,「点と線」「ゼロの焦点」「砂の器」「黒革の手帖」など推理小説であるが,彼以前の推理小説(探偵小説)とは一風違う。江戸川亂歩を代表とする昔の探偵小説には,超人的な名探偵が出てきて,だれも解けなかった謎をことごとく解決し,皆をあっといわせる。しかしそんなのはどうも不自然だ。現実はそんなものじゃない。いくら小説でも,それはいかがなものか,というので,彼はより現実的な物語を描いている。清張の推理小説は,犯罪の動機を特に重視し,背景となった社会的事情にもしっかり触れることで,説得力を増している。ただ,彼が疑問視した名探偵は,21世紀の今も漫画やドラマの世界では主流のようだ。いつの時代もヒーローは必要とされる。
子供は皆,ヒーローものが好きだ。うちの子も最近プリキュアにはまっている。善と悪がはっきりしていて,正義のヒーロー(ヒロイン)が活躍して悪をくじく。大変わかりやすい構図で,感情にも訴えかけるし,後味もよい。私自身もサンバルカン・ダイナマン・ギャバン等の戦隊ものをよく観ていた。しかし,そんな子供も成長するにつれ,世の中そんなに単純なものじゃないことを知ってゆく。それでも虚構の世界では,わかりやすい二分法で描かれた物語が支持を集める。それがあくまでエンターテインメントの範囲にとどまっていればよいが,このような思考法は少なからず現実を把握する際にも使われる。二分法やステレオタイプは思考を節約する。実際問題として,ステレオタイプ全くなしでものを考えることなどできないが,極端な二分法を現実に適用するのは危ない。
純文学というのは,娯楽小説にありがちな,極端な二分法を排する傾向があるらしい。現実はもっと混沌としていて人間も社会も矛盾だらけである。人間の汚い所をさらけ出し,どうしようもない感情の奔流,そういうものをあからさまに描く。概して純文学は,後味があまりよくないのもそのためだろう。
戦争に敗けた日本では,価値観が激変する。戦争に協力した知識人は競ってそれに追従を唱えた。これに対し,太宰は世の中の欺瞞を絶望的に感じとり,「斜陽」や「人間失格」を執筆したという。そして最後には情死を遂げて自身も破滅する。その後に登場した清張は,そういう戦争直後の激動から立ち直った人々に,より現実味のある虚構を,エンターテインメントとして提供した。純文学のように現実や人間本性を見つめすぎずに,かといって陳腐な空想に陥らない程度に,うまくバランスをとって成功した作家,といえるのではないだろうか。
清張の活躍した時代は,新聞小説全盛期だった。皆が新聞を読み,そこから国民的作家が続々輩出していく時代だった。今では状況が一変している。今年還暦を迎え,最近しきりに新刊が取り沙汰されている村上春樹が,最後の国民的作家になるのかもしれない。私は嫌いだが。
今年生誕百年の作家といえば,松本清張もそうだ。彼の誕生日は12月21日なので,今度の冬には清張ブームが起こっているのだろう。太宰と清張が同い年,というのは少し意外だ。清張の方がずっと身近で,より最近の作家,という感じがする。個人的に純文学はあまり読まない,というのもある。が,清張の活躍は太宰が死んだあとに始まったので,大方の印象も同じだろう。清張はとても遅咲きだ。
清張のデビューは戦後,40歳を過ぎてからだ。彼は戦争中,朝日新聞に勤めていた。以前は嘱託社員だったが,収入が減るにもかかわらず,正社員にしてもらった。案の定,陸軍から赤紙がきて応召し,朝鮮半島で終戦を迎える。その間,留守中の家族には,朝日新聞から給料が支払われた。今も正社員と派遣社員の格差が問題になるが,戦前も同じである。大企業のサラリーマンは安心して戦争に行けた。中小企業の職工,自営業者や農民はそうはいかなかった。
清張といえば,「点と線」「ゼロの焦点」「砂の器」「黒革の手帖」など推理小説であるが,彼以前の推理小説(探偵小説)とは一風違う。江戸川亂歩を代表とする昔の探偵小説には,超人的な名探偵が出てきて,だれも解けなかった謎をことごとく解決し,皆をあっといわせる。しかしそんなのはどうも不自然だ。現実はそんなものじゃない。いくら小説でも,それはいかがなものか,というので,彼はより現実的な物語を描いている。清張の推理小説は,犯罪の動機を特に重視し,背景となった社会的事情にもしっかり触れることで,説得力を増している。ただ,彼が疑問視した名探偵は,21世紀の今も漫画やドラマの世界では主流のようだ。いつの時代もヒーローは必要とされる。
子供は皆,ヒーローものが好きだ。うちの子も最近プリキュアにはまっている。善と悪がはっきりしていて,正義のヒーロー(ヒロイン)が活躍して悪をくじく。大変わかりやすい構図で,感情にも訴えかけるし,後味もよい。私自身もサンバルカン・ダイナマン・ギャバン等の戦隊ものをよく観ていた。しかし,そんな子供も成長するにつれ,世の中そんなに単純なものじゃないことを知ってゆく。それでも虚構の世界では,わかりやすい二分法で描かれた物語が支持を集める。それがあくまでエンターテインメントの範囲にとどまっていればよいが,このような思考法は少なからず現実を把握する際にも使われる。二分法やステレオタイプは思考を節約する。実際問題として,ステレオタイプ全くなしでものを考えることなどできないが,極端な二分法を現実に適用するのは危ない。
純文学というのは,娯楽小説にありがちな,極端な二分法を排する傾向があるらしい。現実はもっと混沌としていて人間も社会も矛盾だらけである。人間の汚い所をさらけ出し,どうしようもない感情の奔流,そういうものをあからさまに描く。概して純文学は,後味があまりよくないのもそのためだろう。
戦争に敗けた日本では,価値観が激変する。戦争に協力した知識人は競ってそれに追従を唱えた。これに対し,太宰は世の中の欺瞞を絶望的に感じとり,「斜陽」や「人間失格」を執筆したという。そして最後には情死を遂げて自身も破滅する。その後に登場した清張は,そういう戦争直後の激動から立ち直った人々に,より現実味のある虚構を,エンターテインメントとして提供した。純文学のように現実や人間本性を見つめすぎずに,かといって陳腐な空想に陥らない程度に,うまくバランスをとって成功した作家,といえるのではないだろうか。
清張の活躍した時代は,新聞小説全盛期だった。皆が新聞を読み,そこから国民的作家が続々輩出していく時代だった。今では状況が一変している。今年還暦を迎え,最近しきりに新刊が取り沙汰されている村上春樹が,最後の国民的作家になるのかもしれない。私は嫌いだが。





